こうや豆腐年代記 日本古来の伝統食こうや豆腐のはじまりと未来

はじまりに2つのものがたり

ものがたりその1 鎌倉時代、高野山の僧侶の食事から

およそ800年前の鎌倉時代、高野山の僧侶たちの手によってつくられた「凍り豆腐(こおりどうふ)」がはじまりとされています。精進料理として食べていた豆腐が冬の厳しい寒さで凍ってしまい、それを翌朝溶かして食べてみたところ、食感が面白くおいしいというので食べられるようになったと言われています。

また異説として、中国から弘法大師が持ち帰ったという説もあります。

ものがたりその2 長野・東北地方の冬場の食材

こちらも鎌倉時代。「凍み豆腐(しみとうふ)」という名称で冬場の食材としてつくられていたというもの。はじめは“一夜凍り”のものを利用していたが、室町時代から安土桃山時代の頃、つくって吊しておくうちに自然に乾燥することが発見され、これを保存食・兵糧食としたと考えられています。

戦国武将にもてはやされる

長野県で最も古い凍み豆腐の産地として伝えられる佐久地方の矢島村(明治に佐久市へ統合)。武将、武田信玄が治めていた甲州は当時“凍み豆腐”の消費地域で、信玄は保存のきく“凍み豆腐”を兵糧として確保しようとしました。これに応え、甲州との街道筋にあたる矢島村で「凍み豆腐」が生産されるようになったと言われています。

江戸時代、地域の特産品として広がる

高野山では、時代を経てつくり方が改良され、凍った豆腐にお湯をかけて溶かし水をしぼってから乾燥するようになりました。

江戸時代初期には“氷豆腐”と呼ばれていましたが、高野山でつくられる豆腐=“高野豆腐”と呼ばれ、信者への贈答品や高野山の土産物として広がっていきました。保存のきく貴重なたんぱく源として、やがて江戸時代の天保の飢饉(1833〜1839年)の頃から、次第に近畿から全国へと広がっていきました。

一方、佐久・諏訪地方でも江戸時代に主産地として大量に生産されるようになり、各地に凍み豆腐の生産が広がっていきました。

また各地でさまざまな名称で呼ばれるようになりました。

当初の製法は全国どこでも“一夜凍り”でしたが、江戸時代には自然乾燥させる“凍み豆腐”と一度溶かして乾燥させる“高野豆腐”の2つの製法に分かれました。また生産消費圏も、関ヶ原以東は凍み豆腐、以西はこうや豆腐としてはっきりと分かれていました。

画期的な”人工冷凍法”が出現

明治時代になり画期的な製法が開発されました。第5回国内勧業博覧会(1903年・明治36年)に人工冷凍豆腐が出品されました。

これまでの製造法では天候に左右され、均質な製品をつくるのが困難でしたが、製造工程の機械化、年中均質な凍り豆腐が大量につくることができるようになり、画期的な製法の転換がはかられました。

さらに、気象条件の適った山間僻地にこだわる必要がなくなったため、消費地に近い場所に工場を構えることができ、輸送費の節約や製造コストの引き下げ、大量生産が可能となり、こうや豆腐の生産・消費量は大幅に伸びました。

原料不足で生産が中断

大正、昭和にかけ膨軟法や人工冷凍法の発展により、こうや豆腐の生産と需要は高まりました。しかし日清戦争から第二次世界大戦にかけ、原料となる大豆や燃料、徴兵による労働力不足によって工場生産は一時中断します。そして若干の農家における自家用の天然製法による凍み豆腐の生産のみとなりました。

戦後は全国一の生産地誕生へ

終戦後、こうや豆腐は良質なたんぱく源として再び脚光を浴びます。しかし、原料の大豆は相変わらず乏しく、需要に対して十分な供給ができませんでした。そこで、全国の凍り豆腐業者からなる全国凍豆腐工業協同組合は大豆の受配給に尽力し、ようやく製造を再開しました。

こうした動きとともに、長野県がこうや豆腐を県の特産品とするために働きかけ、昭和30年代になると産学官共同での「信州ブランド」づくりが進められ、こうや豆腐の産地化が行なわれました。

現在長野県は高野豆腐の全国シェア98%を占めています。

一方、高野豆腐ともいえる高野山を中心とする近畿地方では、昭和20年代後半に自然災害や製法の近代化が原因で衰退し、現在では製造されなくなりました。

こうや豆腐南極へ

戦後の科学的成果として脚光を浴びていた南極観測隊。こうや豆腐がその品質の優秀さを日本学術会議で認められ、南極越冬隊員の食糧として採用されました。昭和33年10月(1958)、当社のこうや豆腐が輸送船「宗谷」に積み込まれ、南極の地に降り立つことになりました。越冬隊員の栄養源として大いに役立ちました。

生活に合わせた製法の近代化

高度成長時代に入り、生活の変化に合わせ製法技術の革新が進められました。

アンモニア加工から重曹を主体とした膨軟加工技術を開発。湯戻しせずに直接炊くことができ、しかもいつまでもつくりたてのやわらかさが再現できるたいへん扱いやすいこうや豆腐ができるようになりました。昭和47年7月(1972)に「新あさひ」の名称で発売を始めました。

こうや豆腐宇宙へ

平成6年7月(1994)向井千秋さんが日本人初の女性宇宙飛行士としてスペースシャトル「コロンビア」に乗り込み宇宙へ飛び立ちました。

この時シャトルに持ち込んで宇宙で味わう日本食のメニューがNHKと読売新聞社で公募され、「大地より愛を込めて」と名付けられたこうや豆腐にひき肉、しいたけなどを加えた煮物が最優秀賞に選ばれました。

日本の伝統食品であるこうや豆腐がNASAで宇宙食として取り上げられたことで多くの人の関心を集めました。

こうや豆腐新時代へ

近年、たんぱく質の中で分解されにくく食物繊維に似た働きをする「レジスタントタンパク」が、こうや豆腐のたんぱく質の中で約3割を占めることがわかってきました。血中の悪玉コレステロール値を減少させる効果が報告されたほか、食後の中性脂肪の上昇を抑制する効果も見られ、健康維持に役立つと期待されています。

また、こうや豆腐をやわらかくするための重曹を炭酸カリウムに切り替えることで、食塩相当量ほぼ0(0.003g)を実現。さらに塩分の排出を手助けするカリウムを従来品と比べ約26倍に増やすことに成功しました。

こうした新しい発見や加工技術の進化により、伝統的食材でありながら現代の健康食として、より多くの人に愛されています。

参考文献 『旭松三十年のあゆみ』旭松食品株式会社
『女の一生と、こうや豆腐。』こうや豆腐普及委員会
『日本の伝統食こうや豆腐はやっぱりすごい』こうや豆腐普及委員会
『凍み豆腐の歴史』宮下章
「空海の歩いた道」頼富本宏/永坂嘉光(小学館刊)